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蜘蛛の糸をのぼれば

第一章 カンダタ苦しみの記録(^o ^)→(;。 ;)→(。 。→(T T;)→\(To T;)→\(T、 T;)→(「o 「)

 

生まれてから 小学校卒業まで(^o ^)


のびのびして生きていたなぁ。なんにも未来に苦しいとか、疑念を抱かない子供だった。子供らしい子供だったと思う。どうして、後々、ひどいことになっていったのだろう。世の中は無情だと思う。人生を生き抜くことは大変だ

人見知りはたしかにあった。でもうち解けてしまえば、僕は暴れ回った。元気があふれていた。担任だろうが目上の人だろうが、敵意を持っていない人なら、すぐうち解けられた。自分がどう思われているとかまったく考えなかった。だから、みんなから少なからず、かわいい奴だとは思われていたみたいだし、その栄養を吸収して、のびのびと生きていた。

人の悪意があることなんか考えてもみなかったし、自分だけは無縁に生きていけるだろうと、いじめられている同級生を見て優越感に浸っていた。でも、人が残酷な生き物とはまったく予想外だった。いたずらもたくさんして、たくさん笑って、運動した。勉強もクラスでトップクラスだった。

いじめられている女子生徒なんか人ごとだった。いじめには加わらなかったが、どこかで、その子に残酷な気持ちを持っていたと思う。まさか、のちに自分がそんな状態になるとは夢にも思わなかった。夢にも思わなかったから、青天の霹靂だったんだろう。

あと自意識なんか感じないで生きていた。ガキの頃はみんなそうなんだろうけど。だから、悩んでいる最中は、子供の頃は良かった、とずっと思っていた。あんなに無邪気だったら、悩まなかったのに。なんで、自意識過剰になって、人や評価に敏感になったんだろうと思っていた。

けっこう人気者だった。つきあうとか、そんなことはなかったけど、お気に入りの女の子(サト子)とは相思相愛だった。気分がよい時が多かった。この女の子のことで、トラウマができてしまうのは中学校の時だけど、とにかく仲が良かった。話が弾みに弾んだ

公立の中学のため、小学校時代の友達も知り合いもほとんどそこに通った。
そこから地獄が・・・・

 

中学生(;。 ;)

女の子を意識する年頃だった。自意識もどんどん芽生えていった。急にませた友達もいた。その友達(鈴木)は小学校の時とても仲が良かった。
吉田は女の子とべたべたするようになった。その変化にショックを少なからず覚えた。また僕のことを疎外し始めた。まわりのうち解けていた友達も急によそよそしくなった。それは自意識が芽生え、皆大人になっていく時のよくあること、だったのかもしれない。でも、なぜか心の中に不安がよぎった。
胸苦しさを覚えた。なんか違うな、と感じた。そのよそよそしくなっていく友達にあわせようと、無理をした。だから窮屈だった。でも、離れていって欲しくなかった。女子とも昔のようにしゃべれなくなった。なにか怖い生き物のように感じ始めた。そんな状態で、中学も1年、2年と過ぎていった。

大問題が起こったのは中学3年の忘れもしない秋頃だった。どんどん、昔のような明るさやのびのびとした気持ちはなくなっていき、憂鬱が多くなっていった頃だ。昔の僕を知っている奴らも、そんな僕のことを不思議がった。サト子も鈴木も同じクラスだった。

昔のようにしゃべれなくなっていた僕は、昔のようにしゃべろうと自意識と良く思われようという頑張りの姿勢をむき出しで、二人の会話に割り込んだ。
そのとき鈴木が、 「お前、つまらなくなったな」とか「どもってるぞ」といって、笑った。人から悪口や嘲笑されたことがなかった僕は、異常なショックを受けた。しかも、サト子も笑っていたのだ。笑うだけなら、僕も忘れることができたかもしれない。サト子は、僕の口調をまねしたのだ。良く喋っていたが、決して舌回りがなめらかでない僕だった。でも、それをはっきり、笑いの対象として見られていることをまったく意識していなかった。だから、マネされて、笑われたこと、しかも昔親しかった二人にやられたことは、この上ない異常な衝撃だった。頭をなにかで殴られた気がした。殴りたかったし、犯してやる、とまで思った。でも、当然できなかった。


吉田とサト子はつきあい始めた。僕はすっかりうつ状態だった。いつも、自分の口調、話し方を考えていた。それほどおもしろい笑いの対象となるしゃべり方なのか? テープレコーダーを買ってきて、自分の声を録音し、聞きたかった。でも、万が一、自分でも変なしゃべり方をしているとわかると、もう一生立ち直れない気がした。コンプレックスが一生ついて回ると思った。カラオケにも行けなくなった。誘われても、絶対断った。本当は生きたかったし、みんなとわいわいやりたかった。とことんまで、人の目が気になりはじめた。評価も怖かった。声を出すことすらはばかった。

いまもクラスのどこかで自分を笑いものにしている、と思い始めた。みんな僕のことをのけ者にしているんじゃないかと思い始めた。たとえば授業中トイレに行く、という目立つ行為をすると、みんな僕がいなくなった後に、ひそひそ、いやあからさまに笑いものにするんじゃないか、と怯えた。だからいつも教室にいた。だけど聞こえてくるのは、僕の名前らしい発音だ。「声」「しゃべり」という声が聞こえてくると、ビクッとなった。全身が反応した。身の毛もよだつ、そんな状態だった。

その時でも、クラスの発表の時はなぜか自分のしゃべり方を気にしたことはなかった。でも、社会の地理の教科書を読まされた時だ。あれは忘れもしないブラジルのところだ。僕は読んでいた。緊張していた。ブラジルの何かおもしろい地名があった。僕は思わず読みながら、一人で笑ってしまった。
クラス中も僕に反応して笑ってくれることを望んでいた! でも! しらーとした、みんな白い目で僕を見ていた(そうはっきり感じた!)。ひそひそと僕のことを軽蔑するように見て話している女性ともいる。吉田やサト子もなにか話して含み笑いをしていた。僕はおびえた。すごい失敗をして、恥をかいてしまった。それ以来、当てられるのが恐怖になった。笑ってしまったらどうしようと思った。そのとき、一瞬僕の中に電撃のように何かが走った。「どもったらどうしようっ!」 そう思った瞬間、次当てられたら最後だと思った。 

そして、次当てられてしまったっ! もうしどろもどろでやっと読み終えた。もう泣きたくて泣きたくてしょうがなかったなぁ。クラスの奴らに笑ってもらったほうがよかったとおもった。そっちのほうがまだしも気が晴れた。でもみんなの反応はシラーっとしたものだったから、余計惨めに感じた。もうだめだ、とおもった。実際だめになってしまった。どうにか中学を卒業した。いやなやつらともおさらばだと思った。成績は急降下していた。勉強に意識を向けられなかった。いつも声のこと、自分のこと、話し方のこと、クラスメートのこと、嫌われたらどうしよう、笑われたらどうしよう、そればかり考え疲れ果てていた。

 

高校生(。 。

心機一転、高校はうまくやろうと決心した。だから、がちがちに緊張をよけいした。女子生徒に笑われるマネはしないようにしようと決心もした。
でも、失敗した。しどろもどろ。また教室の前に立って、研究を発表するという催しがあった。その出番が来ることが苦痛でしょうがなかった。
その日は休んだ。でも、学校に出た日、一人だけで発表させられた。みんな聞いてやろう、という姿勢でいた。ニヤニヤしている奴らもいた。僕は泣いてしまった。半泣きといった方がいいかも。何もしゃべれなかった。担当の先生が気を利かせて、授業終わったら先生だけに聞かせてくれ、といった。惨めで惨めで自殺しようと思った。その時なにか別のショックを受けることがあったら、飛び降りていたかもしれない。

それからいじめにあうこともあった。みな悪口やからかいの対象に僕を担ぎ上げようと画策しているかのように思えた。毎日毎日が憂鬱で苦しかった。対人恐怖症に完全に仕上がっていた。それに極度のあがり症になっていた。まともに話すことすらかなわない状態で、この弱点を抱えたまま、生きていけないとおもった。真っ暗闇だったなぁ。

どうにか自分の症状を変えたいと思って、身近な京都のカウンセリングルームに行った。よくある症状といってくれて、とてもホッとした。いまでも、その暖かさは忘れない。でも、寂しくもあった。なんら良くなることにつながらなかったからだ。どんどん通うのもおっくうになってきた。日課をこなすだけだったし、高校生の僕が、こんなところに通っているなんてとても恥ずかしい気がした。同年代の奴らは、通う必要がないのに。もし、カウンセリングルームから出てきたところを、知り合いに見つかったらどうしようと怯えてもいた。ばからしい! そこは知り合いの奴らが絶対通らない道なのに! でもカウンセリングルームから出たとき、人が前から歩いてくると、この人、悩んでいる人だな、と見られているかと思うと、いやだった。

とにかく話すことのテクニックを身につければ、すべて解決するかも、有利にことを運べるという淡い期待を抱いて、話し方教室に通った。このころは症状を治すことにまだまだ期待があった。夢があった。これで弱点とはおさらばだ、と思っていたが、習ったことも、すべて、発表という場の恐怖心にすっかり飛んでしまった。このおそってくる恐怖心にのまれるだけだった。緊張するのは誰でも当たり前といっても、自分は次元の違う症状なんだと思い知った。話し方教室の先生も自分を扱いかねているようだった。惨めな気持ちがした。積極的な弁論術を身につけようと通っている人もいて、蔑視されているなと感じた。勝手に僕の対人恐怖症がそう思わせたのかもしれないけれど・・・・。だから足が遠のいた。

相変わらずクラスでは苦しい思いをしていた。不登校をしたかった。でも、したらもう戻れないという予感があって、無理してでも通っていた。あのころは通信制の高校や、フリースクール、大検といった制度があったにせよ、全然身近じゃない時代だったから。ドロップアウトは、人生からのドロップアウトだとすら、僕は思いこんでいた。中学で書いたことが、日常的に僕の身に起きていた。早く高校が終われと思っていた

 

大学生(T T;)

どうにか大学に通えた。ずーっと成績が悪かった僕も、受験の時だけは頑張った。一人で学習するから、人は気にしなくていいのだ。そのかわり、試験の時、緊張して落ち着かなかった。大学に入ってからも、一番の気がかりは、会話・発表につきた。大きな大学で、人数もたくさんいるので、大人数生の授業が多いと聞いていたため、ほっとしていた。よくさぼれることも、うれしかった。でも、そんなことは世間が許さなかった。

外国語をとらなくちゃいけない。外国語は少人数制だった。しかも毎回発表する。おじけづいた。そんな形式を受けないように受けないようにしっかりと発表をさせられない授業を選ぼうと思った。でも、どれがその形式なのかわからなかったから、運だった。いっそのこと、講師に、自分が発表が大の苦手だと言うことういって、さされないようにしようかと思った。また、友達を作ることを極力避けていた。一緒の授業に出たとき、自分の弱点が暴露することが耐えられなかった。弱点がない自分という存在で、友達の前でいたかったから。結局、英語・ドイツ語ともにさされる授業だった。毎日、その授業がある日は憂鬱だった。つっかえつっかえ、周りからおかしいと思われながらも、当てられた日は人前で話したが、終わったら泣きそうだった。

それをどうしても避けるために、精神科に通った。発表形式の授業があるとわかったときに、それまでに良くなろうと思ったから。京都にある精神科に通ったが、結果は芳しくなかった。医者の事務的な態度に違和感を覚えた。また受付の女も感じが悪かった。最初に通ったカウンセラーはとてもやさしかった。そのギャップがよけい落ち込ませた。薬を飲んでも、あいかわらずあがり、緊張をし、しかも頭がぼーっとして眠くて眠くてしょうがなかった。体質があるからと言われたが、眠くなるのはとても嫌だった。次々と新しい薬、また増やしたりして、様子を見ていたが、まったく変わる気配がないのに、僕は愕然とした。薬を飲んでも効果がないのは、やばいと思った。医者が悪い? でも、出す薬は同じだし、こちらの都合によるものだと考えてしまうと、未来が遠のいた感じがした。

本屋がよいの日々が始まった。大手書店に行き、いい療法がないか探した。様々な研究所・療法紹介・症状紹介の本があり、希望が出てきたのをよく覚えている。これだけ本があるなら、突破口があるはず、と思った。そこで催眠療法というものがあることに気づいた。それに期待を持ち、早速、あがり症、吃音どもり克服ということを謳い文句にしている催眠療法所に通い始めた。どきどきした。検討が全くつかないし、それだけ期待もあった。そこで愕然とした。僕は催眠に入れない体質だという。また階段が一つはずされた。通い始めてからそういわれたから、悔しかった。自分の体質にも腹が立った。みんなは入れるのに、僕だけ入れないときた。でも、実は催眠状態はよっぽど深い状態にならないと意味がないらしい。入れる人も、ほんの少数だという。もう一つ、催眠療法のセラピストは腕が非常に重要だという。だから、腕利きのセラピストを見つければ、催眠に入れない僕でもいつか入れて、あがり症や対人緊張も解消するという期待はあった。

大学後半にはゼミがあった。これが一番おそれていたことだった。研究の発表、討論会、わきあいあいとゼミの授業が行われる、そう考えると落ち込んだ。いかに避けて通るか、対策をとりたかった。でも、ゼミと卒論を突破しなくちゃ、卒業はできない。その前に何かしようと思った。緊張しない話し方の本を読んだり、自己啓発の本、あがらない対策の本を読んだ。でも、実際、人前でそれができなかった。僕の無意識がそうすることを妨げた。圧倒的な強迫観念が、どんなに本を読んで対策をとっても、襲いかかってきた。もうそうなったら、僕は何にもできないで、打ちのめされ続けた。ゼミも強力目立たないようにしていた。目立たないようにしていたら、失敗したときも傷を浅くてすむ。それに、ほっといてもらいたかった。大学四年間も結局なんにも症状は良くならないし、よけい緊張やあがり症が強まった。対人恐怖症も重くなった。

就職がこわかった。またこの致命的な弱点を抱えたまま、面接を受け(ここで落とされるのは明白だった)、かりに就職できたとしても、また会議が怖かった。人と接しない仕事をしたかった。裏街道しか歩めない自分が情けなく、腹立たしく、憂鬱だった。

就職しないように決めた。それは、就職試験を受け、面接の時、何にも喋ることがほとんどできなかったからだ。しどろもどろの自分が悲しくなった。生きてはいけないと思った。他の人も面接の時緊張していた。だけど、僕のは次元が違った。あがり症と一言で片づけられない、非常に重い神経症だった。もう、その場になるとそういった回路にしかならないんだろう。両親の手前、フリーター(今で言うとニート状態)になることは、心苦しかったが、どうしようもなかった。両親も子供の頃はあんなに・・・・と言った感じで、グロッキー状態の僕を心配していた。

 

ニート・フリーター・プータロー\(To T;)

フリーターになったが、短期のバイトだけやっていた。このころは、年も若いし、その間に絶対良くなろう! と思っていた。だからといって、どこで胴欲なるかは全くわからなかった。いつか、治っている、と言う慰みだけが、僕をささせていた。

話し方教室に通った。以前通ったところと全く変わらなかった。でも、何かしていないといけないから、義務として通っていた。何もしていないと気が変になりそうだったから。話し方に弱点がある人がたくさん来ていた。多いんだな、と改めて思ったけど、僕がよくならないことには何にも意味がなかった。良くなっている人もいなかった。潜在意識が原因だな、と改めて痛感した。

だから、どこかに通わざるを得ないから、とりあえず、カウンセリングルームにまた通った。京都より大阪のほうが、いいところがあるだろうとおもって、通った。大きなところにかよったら、目当てのカウンセラーではなく失望した。でも無駄に通い続けた。悩みをはき出せたのはよかった。

一応世間体を気にして、就職しようと思った。一人では働ける職場で、コミュニケーションがいらない職場だった。雑誌をとことん調べた。コンピューター関連がいいと思った。パソコンとにらめっこしていればいいから。夜間警備も考えたけど、夜間労働は、僕の自律神経が狂ってしまうかも、と恐怖になり、候補からはずした。


社会人\(T、 T;)

やっぱり、僕には社会に出ることは無理だと働いて改めて思い知らされた。高校と大学であったことが、会社の場合、責任から逃れない分、給料をもらっている分、厳しく襲いかかってきた。低く見られていたのも無惨に感じたし、陰湿な職場だった。早くやめたかった。でも早くやめると、逃げる気がした。ぎりぎりまで頑張ってやめてやると思った。周りともうち解けず、特に月曜日は苦痛で苦痛でしょうがなかった。月曜日は自殺者が一番多いと言うけど、僕みたいな人間が死んでいるんだろうな、と人ごとではなくなった。サザエさんが日曜日夕方にやっていると、憂鬱になった。明日が来るからだ。大河ドラマが終わるといっそう憂鬱が増した。でも給料は出た。
そのお金で催眠療法に通った。大阪で有名な、駅でよく見かけるところだった。宣伝をしていると言うことは、有能な人なんだろうと思った。

実際通ったら拍子抜けした。前の催眠療法よりも全然違うだろうという期待が見事裏切られた! 愕然とした。有名なところでも、このレベルかと思った。いや、ここがこのレベルなら、他もみんな同じだ。そういうものなんだと思い、怖くなった。自律訓練法のCDをそこから買い、毎晩聞き続けた。電車の中でも聞き続けた。でも、なーんにも起こらなかったなぁ

会社もきつくなり、耐えられなくなってやめた。親には就職をまだしていることをごまかすために、朝から家を出て、どこかで時間をつぶしていた(インターネットカフェや図書館など)。でも、それも苦痛になり、やめたことをいい、またニート・フリーター生活になった。時々短期バイトをした。


ニート・フリーター・プータロー(「o 「)

催眠療法にまだ未練があった。大阪のところは所詮あんなところだと思い、京都で最後に通ってダメならあきらめようとした。森田療法は入院が嫌だった。精神科はもう問題外だった。前世療法もしっくりこない。軽蔑すらしていた。働いていなかったから、お金がなかった。親から借りなければならないけど、高かった。催眠療法にいくと言えば、許さないだろう。
心の悩みで苦しんでいるなら、薬を飲め、と絶対言ったと思う。精神科・カウンセリングルームの知識しかないだろう。
でも、結局いえなかった。お金はバイトで貯めたお金と親からくすねたお金で払った。

そこはまだ、前二つよりはましだった。軽い催眠状態に入れた。振り子を自分の意志(無意識?)でうごかせたし、体も重くなったり、暖かくなったりした。おなかもほんわり温かみを持つようにできた。これが入り口かな、と思って、今後上達することに期待が持てた。
でも、ずーっと通っても、そのままだった。ずーっと! これはCDでもつくりこめるようになったし、もう通う必要もなくなった。必要がなくなったということは、僕がいよいよ追いつめられたと言うことだった。先は真っ暗で、一生弱点を抱えて生きなければならない、と言うことだった。

無期懲役を宣告されたようなものだった。
マイナスの言葉が連鎖しておそってくる強迫観念に悩まされるようになり、部屋から出ることすら憂鬱になった。親は、僕のことをせっついた。それができたら、どんなにいいか、ばりばりに働いてやるのに! それがどうしてもっできない!! ジレンマに陥り、よけいマイナス思考になった。落ち込みつづけた。うつ状態に陥っていたと思う。(自分には鬱病という意識はなくて、あがり症・対人恐怖症・吃音という症状としてとらえていた)。

この状態に光が差すのはまだまだ先だったなぁ・・・・


ここまで、読んでいただき、お疲れ様でした。思ったより長くなってしまいました。
もっと簡単に書こうと思ったけど、自分のことだから、こうなってしまいました。
それでも、細かいことを書けば、とんでもなく長くなりますから、ここがちょうどいいところだと思う
次は、希望が出てくるページです。奇跡を起こしてくれた岩波先生に出会う、そして良くなるまで

◎カンダタの希望の記録へどうぞ(蜘蛛の糸が僕の目の前に垂らされたッ)

 

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