蜘蛛の糸をのぼれば第一章 カンダタ苦しみの記録(^o ^)→(;。 ;)→(。 。→(T T;)→\(To T;)→\(T、 T;)→(「o 「) |
生まれてから 小学校卒業まで(^o ^)
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中学生(;。 ;) 女の子を意識する年頃だった。自意識もどんどん芽生えていった。急にませた友達もいた。その友達(鈴木)は小学校の時とても仲が良かった。 そして、次当てられてしまったっ! もうしどろもどろでやっと読み終えた。もう泣きたくて泣きたくてしょうがなかったなぁ。クラスの奴らに笑ってもらったほうがよかったとおもった。そっちのほうがまだしも気が晴れた。でもみんなの反応はシラーっとしたものだったから、余計惨めに感じた。もうだめだ、とおもった。実際だめになってしまった。どうにか中学を卒業した。いやなやつらともおさらばだと思った。成績は急降下していた。勉強に意識を向けられなかった。いつも声のこと、自分のこと、話し方のこと、クラスメートのこと、嫌われたらどうしよう、笑われたらどうしよう、そればかり考え疲れ果てていた。 |
高校生(。 。 心機一転、高校はうまくやろうと決心した。だから、がちがちに緊張をよけいした。女子生徒に笑われるマネはしないようにしようと決心もした。 それからいじめにあうこともあった。みな悪口やからかいの対象に僕を担ぎ上げようと画策しているかのように思えた。毎日毎日が憂鬱で苦しかった。対人恐怖症に完全に仕上がっていた。それに極度のあがり症になっていた。まともに話すことすらかなわない状態で、この弱点を抱えたまま、生きていけないとおもった。真っ暗闇だったなぁ。 どうにか自分の症状を変えたいと思って、身近な京都のカウンセリングルームに行った。よくある症状といってくれて、とてもホッとした。いまでも、その暖かさは忘れない。でも、寂しくもあった。なんら良くなることにつながらなかったからだ。どんどん通うのもおっくうになってきた。日課をこなすだけだったし、高校生の僕が、こんなところに通っているなんてとても恥ずかしい気がした。同年代の奴らは、通う必要がないのに。もし、カウンセリングルームから出てきたところを、知り合いに見つかったらどうしようと怯えてもいた。ばからしい! そこは知り合いの奴らが絶対通らない道なのに! でもカウンセリングルームから出たとき、人が前から歩いてくると、この人、悩んでいる人だな、と見られているかと思うと、いやだった。 とにかく話すことのテクニックを身につければ、すべて解決するかも、有利にことを運べるという淡い期待を抱いて、話し方教室に通った。このころは症状を治すことにまだまだ期待があった。夢があった。これで弱点とはおさらばだ、と思っていたが、習ったことも、すべて、発表という場の恐怖心にすっかり飛んでしまった。このおそってくる恐怖心にのまれるだけだった。緊張するのは誰でも当たり前といっても、自分は次元の違う症状なんだと思い知った。話し方教室の先生も自分を扱いかねているようだった。惨めな気持ちがした。積極的な弁論術を身につけようと通っている人もいて、蔑視されているなと感じた。勝手に僕の対人恐怖症がそう思わせたのかもしれないけれど・・・・。だから足が遠のいた。 |
大学生(T T;) どうにか大学に通えた。ずーっと成績が悪かった僕も、受験の時だけは頑張った。一人で学習するから、人は気にしなくていいのだ。そのかわり、試験の時、緊張して落ち着かなかった。大学に入ってからも、一番の気がかりは、会話・発表につきた。大きな大学で、人数もたくさんいるので、大人数生の授業が多いと聞いていたため、ほっとしていた。よくさぼれることも、うれしかった。でも、そんなことは世間が許さなかった。 外国語をとらなくちゃいけない。外国語は少人数制だった。しかも毎回発表する。おじけづいた。そんな形式を受けないように受けないようにしっかりと発表をさせられない授業を選ぼうと思った。でも、どれがその形式なのかわからなかったから、運だった。いっそのこと、講師に、自分が発表が大の苦手だと言うことういって、さされないようにしようかと思った。また、友達を作ることを極力避けていた。一緒の授業に出たとき、自分の弱点が暴露することが耐えられなかった。弱点がない自分という存在で、友達の前でいたかったから。結局、英語・ドイツ語ともにさされる授業だった。毎日、その授業がある日は憂鬱だった。つっかえつっかえ、周りからおかしいと思われながらも、当てられた日は人前で話したが、終わったら泣きそうだった。 本屋がよいの日々が始まった。大手書店に行き、いい療法がないか探した。様々な研究所・療法紹介・症状紹介の本があり、希望が出てきたのをよく覚えている。これだけ本があるなら、突破口があるはず、と思った。そこで催眠療法というものがあることに気づいた。それに期待を持ち、早速、あがり症、吃音どもり克服ということを謳い文句にしている催眠療法所に通い始めた。どきどきした。検討が全くつかないし、それだけ期待もあった。そこで愕然とした。僕は催眠に入れない体質だという。また階段が一つはずされた。通い始めてからそういわれたから、悔しかった。自分の体質にも腹が立った。みんなは入れるのに、僕だけ入れないときた。でも、実は催眠状態はよっぽど深い状態にならないと意味がないらしい。入れる人も、ほんの少数だという。もう一つ、催眠療法のセラピストは腕が非常に重要だという。だから、腕利きのセラピストを見つければ、催眠に入れない僕でもいつか入れて、あがり症や対人緊張も解消するという期待はあった。 |
ニート・フリーター・プータロー\(To T;) フリーターになったが、短期のバイトだけやっていた。このころは、年も若いし、その間に絶対良くなろう! と思っていた。だからといって、どこで胴欲なるかは全くわからなかった。いつか、治っている、と言う慰みだけが、僕をささせていた。 一応世間体を気にして、就職しようと思った。一人では働ける職場で、コミュニケーションがいらない職場だった。雑誌をとことん調べた。コンピューター関連がいいと思った。パソコンとにらめっこしていればいいから。夜間警備も考えたけど、夜間労働は、僕の自律神経が狂ってしまうかも、と恐怖になり、候補からはずした。 |
社会人\(T、 T;) やっぱり、僕には社会に出ることは無理だと働いて改めて思い知らされた。高校と大学であったことが、会社の場合、責任から逃れない分、給料をもらっている分、厳しく襲いかかってきた。低く見られていたのも無惨に感じたし、陰湿な職場だった。早くやめたかった。でも早くやめると、逃げる気がした。ぎりぎりまで頑張ってやめてやると思った。周りともうち解けず、特に月曜日は苦痛で苦痛でしょうがなかった。月曜日は自殺者が一番多いと言うけど、僕みたいな人間が死んでいるんだろうな、と人ごとではなくなった。サザエさんが日曜日夕方にやっていると、憂鬱になった。明日が来るからだ。大河ドラマが終わるといっそう憂鬱が増した。でも給料は出た。 実際通ったら拍子抜けした。前の催眠療法よりも全然違うだろうという期待が見事裏切られた! 愕然とした。有名なところでも、このレベルかと思った。いや、ここがこのレベルなら、他もみんな同じだ。そういうものなんだと思い、怖くなった。自律訓練法のCDをそこから買い、毎晩聞き続けた。電車の中でも聞き続けた。でも、なーんにも起こらなかったなぁ |
ニート・フリーター・プータロー(「o 「) 催眠療法にまだ未練があった。大阪のところは所詮あんなところだと思い、京都で最後に通ってダメならあきらめようとした。森田療法は入院が嫌だった。精神科はもう問題外だった。前世療法もしっくりこない。軽蔑すらしていた。働いていなかったから、お金がなかった。親から借りなければならないけど、高かった。催眠療法にいくと言えば、許さないだろう。 ここまで、読んでいただき、お疲れ様でした。思ったより長くなってしまいました。 ◎カンダタの希望の記録へどうぞ(蜘蛛の糸が僕の目の前に垂らされたッ) |
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